まあ思いついたことをつらつらと書き綴っています(写真は奥多摩から見た富士山)。


by M.M@Kanagawa
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細菌戦部隊の影

本日の記事は、なんとなく宣伝じみた内容となっています。

実は、私の知り合いがとあるNPO法人の共同代表となりまして、それじゃあネット上でPRしましょうという話になったので、とりあえず自分のブログでご紹介と相成りました。

ちなみに、その知り合いというのが近藤昭二という人で、とあるNPO法人というのが「731部隊・細菌戦資料センター」という団体です(事務局となっているのが一瀬法律事務所というところで、下のリンク先のトップページの一番下に連絡先が表示されています)。

【関連情報】
NPO法人 731部隊・細菌戦資料センター

さて、この近藤昭二という人ですが、ジャーナリスト、脚本家、作家、テレビ朝日番組プロデューサー・ディレクター等の経歴をもち、三億円事件731部隊関連の著述・研究等をライフワークとされている人物です。

【関連情報】
講師プロフィール・近藤昭二(NPO法人 シニア大樂)

福島原発問題を機に、近藤さんが脚本を手がけた「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(1985)という、原発ジプシーと呼ばれる原発で働く日雇い労働者の問題、原発事故とそれを隠蔽しようとする電力会社・警察・暴力団の癒着の問題を取り上げた映画がわかに注目されているそうです。

さて、この731部隊をめぐる歴史問題を国家的問題として後世に伝えるべく、散逸した資料を収集・整理し、啓蒙することを目的とした団体です。
このほかにも、 中国の細菌戦被害者(つまり人体実験により被害を受けた人)への支援活動や日本政府への情報開示請求、国連人権委員会への働きかけなども行うようです。

近藤さんは、長年にわたって収集してきた731部隊の情報をこのNPO法人に供出し、共同代表として名乗りを上げたわけです。

731部隊の活動については、まだ不明確な部分があり、日本近代史の暗部の解明していく一端を近藤さんが担っているというわけです。

この731部隊については、過去に当ブログで取り上げた「登戸研究所」と深くかかわっていますので、興味がある方はそちらの記事もご覧ください。

【関連記事】
第九陸軍技術研究所(その1)
第九陸軍技術研究所(その2)
第九陸軍技術研究所(その3)
第九陸軍技術研究所(その4)
第九陸軍技術研究所(その5)
第九陸軍技術研究所(その6)

日本近代史、731部隊、細菌戦等の歴史に興味がある方は、先に提示したNPO法人のサイトにアクセスしてみてください。
なお、現在会員募集中だそうですので、興味・関心のある方は振るってご参加ください。
学習会・講演会などを開催しているそうですので、1回それに参加してみて入会するかどうか判断するのも手ですよ。
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by mmwsp03f | 2011-06-05 08:48 | HP(歴史)
登戸研究所は,もともと現在の神奈川県川崎市多摩区東生田にありましたが,アメリカ軍の攻勢が激しさを増し,戦局が不利に展開するのに伴って,より安全な場所へと移転することになります。

移転を決定付けたのは,1944年9月のアメリカ海軍の艦載機(恐らくグラマンF6F)による複数回に及ぶ空襲だったと見られています。
この事件後,すぐに参謀本部の命令によりアメリカ軍機の空襲を回避できる地域に分散疎開することが決定しました。
かなりあわただしく疎開候補地の選定と準備が勧められたそうです。



登戸研究所は海岸線からかなり離れた場所にあり,相模湾沿岸の茅ヶ崎から20km以上(九十九里浜からであれば50km以上)離れています(証言では茨城の日立沖からも来襲したとのこと)。
そのようなところに空母艦載機が空襲を敢行できたということは,日本の近海にまで敵艦隊の侵入を許すほどに海軍の防衛力が弱まり,かつ防空・迎撃能力が著しく低下していたことを示しています。

アメリカ軍に登戸研究所の位置が知られた以上,この場所に留まることはできません。
そこで空襲を受けることがないと思われる,以下のような太平洋岸から離れた土地へと移転することになったのです。

長野県上伊那郡・北安曇郡
 本部,第二科,第一科および第四科の一部
福井県武生町
 第三科
兵庫県氷上郡小川村
 第一科および第四科の一部


移転先では,主に国民学校校舎や集会所,倉庫,個人の邸宅などを間借りして研究・開発が進められましたが,それも半年とたたずに終わりを迎えます。
8月15日の玉音放送による敗戦宣告の翌日には,陸軍省軍事課からの極秘通達によって機密資料・秘密兵器すべてを残らず処分することとなり,徹底した証拠隠滅が図られることになりました。

これによって登戸研究所の秘密戦研究は闇に葬られるはずだったのですが,やはりこれだけの規模で研究開発が進められ,多くの人がこの事業に携わってきたわけですから,どうやっても痕跡は残ってしまいます。
それに人の口に戸を立てて口外しないようにするというのは,なかなか難しいものです。

GHQが伴繁雄氏ら元所員のもとを尋ねてきたのも,元登戸研究所所長の篠田鐐中将がGHQに提出した研究所に関する報告書によって実態が判明したからでした。

それに長い間,口を閉ざしてきたとはいえ,登戸研究所の実態を追究する市民や高校生たちの活動に共鳴し,証言を行う人が現れたということは,そのまま隠し続けることへの心理的な重圧とともに,後世に伝えるべき重要な事実だと元所員の人々が考えたからでしょう。

このような歴史的事実へのあくなき追究の姿勢が,秘密のヴェールに包まれていた登戸研究所の秘密戦研究を世に知らしめることになったのだと思います。

d0104959_14271942.jpg【登戸研究所資料館・碑文】

資料館の横に立っている石版碑文に刻まれている「設立趣旨」です。

「戦争の暗部ともいえる部分を直視し,戦争の本質や戦前の日本軍が行ってきた諸活動の一環を,冷静に後世に語り継いでゆく」ことの重要性や,「戦争遺跡として保存・活用することを目指して地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場」としていくことが語られている。


ただ注意したいのは,登戸研究所のマイナス面だけではなく,プラス面もあわせて認識する必要があるということです。

例えば,怪力電波の原理は現在の電子レンジに応用され,現代人の快適な生活に欠かせない技術を提供しています。
また,毒物研究は解毒剤開発や血清治療の発展に貢献していますし,科学的鑑識法として確立されている指紋検出法も登戸研究所の研究成果を発展させたものです。

この他にも,登戸研究所の研究成果は我々の生活の中に大きな影響を与えています。

科学技術というものはそれ自体は「悪」ではなく,いかなる目的・方法でもって研究・開発を行うかで「善」にもなれば「悪」にもなるということです。

最後にこの特集を締めるにあたって,元第二科研究員であった人が,明大生田キャンパスを訪れた際に語られたという言葉を記しておきたいと思います。

ここの臭いと雰囲気,そして研究している対象は登戸研究所第二科のときと変わらない。違っているのは,目指す方向が人間生活にプラスになるものを追究しているか,マイナスになるものを追求しているかだけだ。


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【日章旗に記された寄せ書き】
登戸研究所資料館所蔵

(登戸研究所資料館より撮影およびブログ掲載について許可をいただいています)
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by mmwsp03f | 2010-06-24 15:55 | HP(歴史)
d0104959_11423250.jpg【第二科研究棟跡】

現在の登戸研究所資料館。
最近まで農学部の実験室として使われていた施設。

ここで,生物化学兵器の研究開発が行われていました。


登戸研究所第二科が開発して実用化したものを一部ピックアップすると,以下の様なものがあります。

●秘密インキ
乾くと透明になり肉眼では判読不能になるインキ。各国で一般に利用されている発見法で発見さえては元も子もないので,特殊な文字消失インキとその現出法が考案された。
薬剤によって現出する方法と紫外線を照射して現出させる方法を考案。

●小型偽装カメラ
関東軍等の野戦憲兵用の装備として開発。かばん型カメラとライター型カメラがある。

●偽装爆弾
缶詰型爆弾と呼ばれるもので,小型・中型の2種類を開発(中型爆弾の爆破効力は半径7mとのこと)。
即時点火式と時限点火式の2種類がある。

●殺傷・放火謀略機材
万年筆型破傷器という毒針を仕組んだ殺傷器具や消音器付小型拳銃,雨傘型の放火機器(偽装簡易火炎放射器)などがある。

これらは憲兵用と陸軍中野学校(秘密戦実行部隊の養成機関)向けの資材だったりします。

d0104959_1135233.jpg【弾薬庫跡】

資料館の斜め向かい側の草むらの中にひっそり閑と存在します。
開発・製造された資材は,このような貯蔵施設に保管されていました。

弾薬庫という割には,たいして大きくない施設ですが,通常兵器と違って開発品はわりと小型だったので,この程度の大きさでよかったのでしょう。
このほかにも,所内にはいくつか貯蔵施設があったそうです。


この他にも,それなりに高度な写真加工技術・暗号伝達技術等も開発されています。
例えば,写真画像の中に微小な暗号文を埋め込む技術なんていうのもあったりします。

ところが,日本は情報の秘密化・暗号化については非常に甘い考えを持っていたために,このような高度な暗号技術を開発しても,有効に活用することはできませんでした。

例えば,怪力電波を「く号研究」,風船爆弾を「ふ号研究」などと暗号名に頭文字をつけるところからも,軍部の暗号に対する意識・発想がいかに低いかがわかります。

かのミッドウェー作戦が失敗したのも,簡単に見破られるような暗号通信法を採用していたことが大きな要因です。
しかも,ミッドウェー戦の後もバレバレ暗号を使い続けたという杜撰さ。
何が失敗の原因だったのかを学ばなかったことが,日本が敗北した最大の原因だったりします。

情報戦の先進国であった米ソ英と比較すると,なんともお粗末です。

資料館には「雑書綴」の写しが展示してありました。
これは登戸研究所でタイピストとして勤務していた所員の方が,発注書などの帳票で打ち間違えたものを個人的に保管していたものだそうです。

この所員の方は,「青春の思い出に」と終戦時のドサクサに家へ持ち帰ったそうなのですが,その際に上司に「持って帰っていいですか」と聞いてOKをもらったといいます。

登戸研究所は仔細な事項に及んで極秘扱いであったにもかかわらずこの体たらく。
機密文書・重要文書が含まれていなかったとはいえ,最重要機密である登戸研究所の情報をこんな形でもらしてしまうとは,日本が情報管理にいかに疎かったかがわかります。


さて,登戸研究所が開発したものの中で恐らく最も役に立ったのは,第三科が開発した偽札製造技術であろうと思います。

とはいえ,この法幣(国民党政府発行の通貨)偽造も最初からうまくいっていたわけではなく,日中戦争勃発当初に実験製造された偽札は,使用に耐えないひどいものだったらしいですね。

当時の法幣は米英の印刷業者の高い印刷技術によって製造され,かなり偽造は難しいものだったようです。

それが,日本軍の南京攻略によって法幣の原版を摂取できたところから,偽札のクォリティは格段にアップしたとのことです。
ところが,紙質が違う,紙幣に刻印された微妙な凹凸がない,インクの色が薄いなどによって案外簡単に贋物と見破られてしまったようです。

d0104959_1201938.jpg【偽造法幣】
登戸研究所資料館所蔵

(登戸研究所資料館より撮影およびブログ掲載について許可をいただいています)

6連になっているのが偽札で,右側に陳列されているのが本物。

この偽造法幣の元となった本物が一緒に陳列されていなかったので,資料館を案内してくれた人に聞いてみたところ,古銭商などにあたっているが残念ながら入手できていないとのこと。
比較対象がないと,どの程度の精巧さなのかわからないので,ちょっと残念。

もともと贋札は,これをばら撒くことで通貨の信用を失墜させて敵国の経済を混乱に陥れることを意図して製造されたものですが,実際には思ったほどの効果はなかったそうです。

で,本来の目的とは違った現地で物資調達の際の支払いに偽造法幣が使用されたとのこと。
そして,日本軍は偽札を使って通常の取引価格より高値で大量に商品を購入していたものだから,便乗値上げや品不足により物価がえらく上昇したなんてことが起こったそうな。

本来の目的とは違った使用方法で局地的に市場を混乱に陥れたということで,多少は偽造法幣の効果はあったようです。
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by mmwsp03f | 2010-06-23 12:30 | HP(歴史)
風船爆弾はアメリカ本土爆撃の他に,第二科が開発した細菌兵器(牛疫ウィルス)を搭載して攻撃をすることも検討されていました。
これは,感染致死率100%の細菌兵器を投下することで家畜を死滅させ,アメリカの食糧供給に壊滅的打撃を与え,戦局を有利に導こうという計画です。

しかし,細菌兵器使用が露呈することによるアメリカ軍の報復を恐れた首相兼陸相の東条英機は,最終的に牛疫ウィルスの使用を承認しなかったといいます。

アメリカのノンフィクション作家ジョン・トーランドは東条英機を非常にまじめな人間だとし,他の歴史研究者からも実務家として優秀な人物との評価もあるので,細菌兵器を使用した場合のアメリカの対応を冷静に勘案して,そのように判断したとしても不思議はありませんが,理由はそれだけではないと思います。

史上初めて大規模な細菌兵器の使用を決定することへの恐れもあったでしょうし,何よりも細菌兵器は取扱いが難しいということが大きなネックになっていると思います。
つまり,風船爆弾に搭載して放ったとき,間違って日本の領域に落ちる可能性もありますし,事故によってウィルスが漏れ広がる可能性も否定できません。

東条英機の細菌兵器使用不許可は,このような事態も想定しての判断だったのではないかと思われます。

さて,この細菌兵器の開発を行った第二科ですが,関東軍防疫給水部(暗号名:731部隊)との関係性が指摘されています。

731部隊は,森村誠一氏の『悪魔の飽食』(角川書店)によって生物化学兵器の開発の際に人体実験を行っていたことが暴露されて一躍有名になりましたが,登戸研究所の所員も中国人捕虜や囚人を使って人体実験をしており,そのことは元登戸研究所所員の伴繁雄氏(技術少佐で第一班責任者)の著書『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房出版)で明らかにされています。

悪魔の飽食 新版―日本細菌戦部隊の恐怖の実像! (角川文庫 も 3-11)

森村 誠一 / 角川グループパブリッシング


陸軍登戸研究所の真実

伴 繁雄 / 芙蓉書房出版



伴繁雄氏は,731部隊の隊長である石井四郎軍医中将が開発した石井式濾過機にセットして使う濾過筒(浄水器のフィルター)を赤穂高校の生徒に提供し,登戸研究所と731部隊の深いかかわりを示した人物です。
登戸研究所資料館に所蔵されている石井式濾過筒は,伴氏が大量に保管していた濾過筒のうちのひとつです。
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【石井式濾過筒】
登戸研究所資料館所蔵

(登戸研究所資料館より撮影およびブログ掲載について許可をいただいています)

登戸研究所保存会編『フィールドワーク陸軍登戸研究所』によれば,731部隊と登戸研究所員は連携して生物化学兵器開発を進めていて,登戸研究所員は南京に出張して青酸ニトリール・青酸カリ等の合成毒の他,ヘビやトリカブト等の毒性植物による天然毒を投与して,人体実験を繰り返していました。

d0104959_17141388.jpg【動物慰霊碑】

明大生田キャンパスの正門の守衛所裏には,およそ3mの高さの慰霊碑があります。

実験動物の慰霊のために建立されたとされていますが,あまりにも立派な慰霊碑なので,人体実験で死亡した中国人捕虜や囚人たちをも慰霊したものではないかと考えられています。

この慰霊碑は,1943年に東条英機陸相から「陸軍技術有効章賞状」とともに授与された賞金から拠出して建立されたのですが,この慰霊碑の存在は一般の所員には認知されていなかったそうです。

実験動物に対する慰霊碑としては大きすぎること,特定の所員のみが存在を知り,一般所員には知らされていなかったことなどが,人体実験の犠牲者に対する慰霊のための石碑として建てられたと想定する理由となっているようです。
つまり,人体実験を知る者たちが良心の呵責から,このような慰霊碑を建てたのだろうということです。

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【陸軍技術有効章賞状】
登戸研究所資料館所蔵

(登戸研究所資料館より撮影およびブログ掲載について許可をいただいています)

この「陸軍技術有効章賞状」は,登戸研究所による数々の秘密兵器開発の実績に対する功績をたたえるもので,生物化学兵器開発に対して授与されたものではありません。

実用に耐えない兵器(例えば怪力電波)に金と時間を費やしたものもありましたが,実用化した兵器や謀略資材も数多くあったようです。

次回は,実用化された兵器・資材を中心に見ていきたいと思います。
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by mmwsp03f | 2010-06-22 18:07 | HP(歴史)
第一科が研究していた主な兵器としては,特殊無線装置,電気殺人兵器,風船爆弾があります。

特殊無線装置は,より無線機を小型化して携帯性を高めることを目指す研究のようです。

電気殺人兵器として開発が進められていたものに怪力電波(くゎいりきでんぱ)があります。
この怪力電波(暗号名:く号研究)は,現在電子レンジに応用されているマイクロウェーブ波を照射して敵兵を殺すための装置です。

鉄人28号や鉄腕アトムのような昔のSF漫画などでビームを照射して敵を倒す兵器が登場するのを見たことがある方もいらっしゃると思いますが,そのようなものを想定していたようです。

ですが,人間を倒すには相当な電力を供給しなければならず,当時の技術ではモルモット等の小動物を殺す程度のものしかできず,実用性はかなり低かったようです。しかも,やたらでかいので運搬にも難があり,トラックや戦車に搭載しても電力が確保できないので,結局使い物にならないということで立ち消えになった模様・・・。

第一科が実用化した兵器として特に注目されているのが風船爆弾(暗号名:ふ号研究)です。

当初は,宣伝ビラを敵陣後方へバラ撒くことを想定して考案されたそうですが,1942年に空母ホーネットから発進したジェームズ・ハロルド・ドゥーリットル陸軍中佐率いるB-25爆撃編隊による初の日本空襲(東京・横浜・川崎・横須賀・名古屋・四日市・和歌山)を契機に,アメリカ本土への爆撃を前提として開発が進められることになりました。

ドゥーリットル空襲は,かのミッドウェー作戦決定に多大な影響を及ぼしましたが,結局作戦は失敗し,空母4隻を失うことになります。これによってアメリカ本土への侵攻および爆撃機による空襲は不可能となります。そこで注目されるようになったのが風船爆弾だったわけです。
このような事情から「最終決戦兵器」として風船爆弾の開発が正式に決定します。
どれだけ効果が期待できるかわからない風船を使った兵器を「最終決戦兵器」というのは冗談みたいな話ですが,それだけ陸海軍はともに追い詰められていたことを示しているともいえます。

ジェット気流に乗せて遥か8000km超のアメリカ本土へむけて風船を飛ばすのは並大抵のことではありません。
当時は現在のように気象衛星から気象データを収取する方法がなかったため,登戸研究所の技能と知識の粋を集めてあらゆる可能性を検討し,確実にアメリカ本土を空襲できる無人風船による爆撃技術の開発が進められました。

d0104959_1117856.jpg【風船爆弾模型】
登戸研究所資料館所蔵

(館内は原則撮影禁止ですが,撮影および写真のブログへの掲載については資料館から特別に許可をいただいています)

この風船に使われていた自動高度保持装置は,当時としてはかなり高度な技術が投入された優れものの機器だそうで,気圧の変化に応じて風船の下部に吊るされた砂袋のおもしを自動的に切り離して高高度を維持することができたそうです。

しかもスパイ大作戦じゃないですが,「自動的に消滅する」ように自爆装置も搭載されていました。

風船の素材はこんにゃくから作った糊と和紙で,水素ガスが抜けないように機密性を高める工夫がなされています。


やがて1944年10月に風船爆弾によるアメリカ本土攻撃の指令が発せられ,翌11月より1945年3月までの期間,15000個の風船爆弾が千葉県~福島県の沿岸地域から放たれました。

それで戦果はどうだったかというと,確認されているものでアメリカ本土中西部18州に361個が到達し,不運なことに六人が死亡したということです(想定では約1000個到達)。
およそ2.5%の低い到達率ですが,わりと広範囲に被害を及ぼしたようで,カナダやメキシコにまで到達したという記録が残っているようです。

この風船爆弾が送電線に引っかかって電線を切断し,原爆製造用の原子炉がストップしてしまったためマンハッタン計画を三日間停止させるという戦果もあったそうですが,これが広島・長崎への原爆投下を阻止し得なかったというのは皆さんご承知のとおり。

だけど,アメリカ政府は風船爆弾の国民への心理的効果を恐れて,これを公表しなかったそうです。1938年10月のラジオドラマ『宇宙戦争』で「火星人が攻撃してきた」と大パニックが起こったという過去があるので,そのような懸念を持ってもおかしくはないと妙に納得。

日本では「死傷者500名突破」と公表されたそうですが,さすが大本営。83倍を超える水増し発表です。
でも,風船爆弾が戦局にまったく影響を及ぼしていなかったことは,その後の歴史が示すとおりです。
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by mmwsp03f | 2010-06-21 11:23 | HP(歴史)
陸軍登戸研究所が何を目的に,どのような研究を行っていたかは大まかに前回書きましたので,今度はより具体的に見てみたいと思います。

旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」(長いので,以下「登戸研究所保存会」とします)が編纂したブックレットによれば,登戸研究所は4つの科に分かれており,第一科から第三科までが研究開発を担当し,第四科が第一科と第二科が開発品の製造・供給などのロジスティックスの部分を担当していたようです。

フィールドワーク陸軍登戸研究所

姫田 光義 / 平和文化


第一科から第三科までの研究開発の主な内容は以下のとおり。
1)第一科(庶務班の他,4つの研究班により構成)
――風船爆弾,特殊無線機,怪力電波,人口雷等の開発

2)第二科(庶務班の他,7つの研究班により構成)
――秘密通信法・防諜諜報機材,対動物・対植物謀略兵器(毒物・細菌兵器),スパイ用撮影・暗号技術,憲兵隊・遊撃隊用兵器等の開発

3)第三科(3つの研究・製造班により構成)
――偽造紙幣の技術開発および製造

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この写真は,第三科の偽札印刷所となっていた5号棟(明大生田キャンパス1号館前にあります)

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これは5号棟の入り口の一つ。「実験室B」となっていますが,これは明大が研究・実験棟として使用していた名残り?

この三科のうち,第二科が最も多岐にわたる研究分野を担当していますが,特に注目されているのが対動物・対植物謀略兵器,いわゆる生物化学兵器の開発です。

登戸研究所は長い間秘密のベールに包まれ,研究内容自体の詳細は不明な部分が多かったのですが,近年の調査によってかなりの部分が解明されてきました。

このような登戸研究所の実態は,いわゆる専門家・研究者,ジャーナリスト等ではなく,一般市民の有志と高校生の研究サークルの地道な調査によって解明されたものです。

特に法政大学第二高等学校(神奈川県)と長野県赤穂高等学校の高校生たちの追究によって,この歴史の暗部に光が差し込むことになります。

それまで,登戸研究所について硬く口を閉ざして語ろうとしなかった元所員の方々から証言を得られたのは,彼ら高校生の働きによるものだそうです。
しかも,戦時中の登戸研究所の活動だけではなく,謀略研究が与えた影響にまで踏み込んで探求し,それを本としてまとめているところがすごいですね。


本のタイトルは『高校生が追う陸軍登戸研究所』
長野・赤穂高校平和ゼミナール
神奈川・法政ニ高平和研究会
教育史料出版会


彼らだからこそ成しえた貴重な成果だと思います。
登戸研究所保存会も「戦争の掘り起こしを自分たちの生き方と結びつける高校生だからこそできた」とし,彼らの活動が戦争遺跡の保存運動に大きな影響を与えたものとして高く評価しています。

こういう活動こそが日本の教育を支え,発展させるものであると思います。
現在では残念ながら後を継ぐ者がいなかったのか,現在では法政ニ高の平和研究会と赤穂高校の平和ゼミナールはなくなってしまっているようです。

返すがえす残念なのが,このような研究実績は学校にとって誇るべきものだと思うのですが,法政ニ高と赤穂高校のいずれのHPにも,彼らの実績について何も語られていないということです。

20年前のことであったとしても,一般に知られていなかった重大な歴史的事実を解明したことは,両校にとってはいつまででも誇れる実績といえます。
このような素晴しい生徒がいたんだということを,もっとアピールすべきだと思います。

【関連情報】
法政大学第二中・高等学校
長野県赤穂高等学校

で,登戸研究所については,後もう少し続きます。

次回は,第一科が開発した風船爆弾をメインに取り上げたいと思います。
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by mmwsp03f | 2010-06-18 13:53 | HP(歴史)
今年の4月に第九陸軍技術研究所(通称:陸軍登戸研究所)跡を残そうという市民運動が実を結び,「明治大学平和教育登戸研究所資料館」がオープンしたということで,行ってまいりました。

【関連情報】
旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会
旧陸軍「登戸研究所」の一施設が、4月7日(水)から「登戸資料館」として一般公開されます
明治大学HP:2010年3月23日記事
旧日本軍の「登戸研究所」活用、明大生田校舎内にある資料館を一般公開へ/川崎
カナロコ=神奈川新聞社WebSite:2010年3月30日記事

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場所は,小田急線生田駅から徒歩10分ほどの明治大学生田キャンパス内の一角。

上の写真は,小田急線生田駅。
急行停車駅の登戸駅から町田方面へ各駅停車で2つめの駅です。

キャンパスの西南門を入ったら直ぐなんですが,駅から歩いていくとえらく遠いところにあります。


明治大学生田キャンパスMAP

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終戦と同時に閉鎖となった登戸研究所は,現在の明大生田キャンパスを含む広大な敷地を占有し,謀略兵器の開発という戦争のアンダーグラウンドな部分を担当していた帝国陸軍参謀本部第二部第八課(謀略・防諜・宣伝担当)管轄の軍事技術研究所です。

以前,NHKで風船爆弾の特集をやっていたので,見たことのある人は登戸研究所をご存知だと思いますが,この研究所は風船爆弾だけではなく,かの731部隊と関連が深い細菌戦研究を行っていたことでも知られています。

それ以外にも,諜報・防諜機器(レーダーやスパイ用器具など),殺人光線,敵対国への経済攪乱のための紙幣偽造など,わりと幅広い分野の研究開発を行っていました。

殺人光線とかいうとSFの世界の話だったりしますが,大真面目に研究をしていたらしいですね。

ということで,今回は歴史の暗部に光を当てるというテーマなのですが,来訪日は梅雨の晴れ間のいい天気で,大学のキャンパス内なので学生たちに混じって飯食ったり,わりとのほほんとした雰囲気でレポートしております。

本日は中華丼(350円也)を食して腹いっぱいです。意外と安い割には量がある。

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生田キャンパスは,理工学部と農学部がある理系のキャンパスなのですが,意外と女子率が高い。

ずいぶん,おしゃれな女子学生がキャンパス内を闊歩していたりします。

施設は割と充実していますが,ちょっと農学部の実験農場が貧弱かなあ。

・・・と本題から外れてしまっていますが,いちおう旧登戸研究所跡地の様子をお伝えして,今回は終了・・・。

次回から本題です。

待たれよ,次号。
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by mmwsp03f | 2010-06-17 14:49 | HP(歴史)