まあ思いついたことをつらつらと書き綴っています(写真は奥多摩から見た富士山)。


by M.M@Kanagawa
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

カテゴリ:HP(歴史)( 24 )

NHKの大河ドラマと連動して,歴史館などでは同時代の出来事や人物に焦点を当てた企画展をやったりしますが,横浜市歴史博物館でも大河ドラマ「平清盛」との関連で,平安末期~鎌倉初期に活躍した秩父平氏の武人,畠山重忠を取り上げて企画展を催しています(2012年10月13日~11月25日)。

【関連情報】
特別展 畠山重忠 -横浜・二俣川に散った武蔵武士-(横浜市歴史博物館)
横浜市歴史博物館トップページ

横浜市歴史博物館の場所は,横浜市営地下鉄センター北駅(横浜駅から10駅目,所要時間約23分)から徒歩5~10分程度で,詳細は下の地図をご覧あれ。

もともと埼玉県にかかわりの深い畠山重忠(現在の埼玉県深谷市の生まれ)を,なぜ横浜市の歴史博物館が取り上げるのか?

それは,畠山重忠の最期の地が横浜市旭区の二俣川(現在では,自動車運転免許試験場があることで有名)だったからでしょう。

彼は,鎌倉幕府内の陰謀により謀反の嫌疑をかけられ,虚報によりおびき出された末,少数の手勢(135騎と伝えられている)だけで数万騎の討伐軍と戦い,討死(一説には自害)したそうです。

「吾妻鏡」の伝える135騎に対して討伐軍数万騎というのはかなり大げさで,当時の動員能力から考えればせいぜい数千騎がいいところだと思いますが,数千騎でも多いですよね。
この「数万騎」というのは,畠山重忠の強さに対する北条氏側の評価(恐れ)の表れでもあったのでしょうね。

畠山重忠は,剛力の持ち主で,誠実な人柄のうえにかなりな人格者(さらにイケメン)だったと伝えられていて,それを伝えるエピソードも「平家物語」や「吾妻鏡」を筆頭に様々な文献に記されているそうです。

そのなかでも,彼の剛力と人柄を伝えるエピソードの一つとしてこんなものがあります。

1184年,一の谷の合戦で源義経が「鵯越えの逆落とし」をした際に,畠山重忠は愛馬を背負って崖を駆け下りたという逸話があります。

愛馬を慮ってのこととされていますが,いくら怪力の持ち主(永福寺建立の際に,人足十数人分の材木を担いだと伝えられる)でも,馬が暴れて崖を降りるどころの話じゃないだろうと思うのですが,さすがにこれは眉唾だろうというのが通説らしいです。

これ以外にも,さまざまな文献で彼の剛力・人柄の良さが伝えられています。

私も,今回の横浜市歴史博物館の企画展で畠山重忠という武将について初めて知った次第ですから,詳しいことはわかりませんが,嫉妬と猜疑心に駆られて内輪もめを繰り返し,結果として平氏に後塵を拝し,北条氏に権力を奪われてしまった源氏のお歴々とはえらい違いだなあと思いました。

畠山重忠という人物は,当時の武将としては類まれなキャラクターの持ち主だったということができると思います。

まさしく「もののふ」の名にふさわしい人物と言えるかもしれません。

【畠山重忠関連の情報】
武蔵武士 畠山重忠辞典(川本出土文化財管理センター・深谷市教育委員会)
畠山重忠(Wikipedia)
[PR]
by mmwsp03f | 2012-10-19 11:44 | HP(歴史)

第0次大戦という認識

Googleでたまたま「第0次世界大戦」という語を見かけたものですから、1月29日にかようなツィートをつらつらとしてしまいました(12:45~13:21)。

最近、日露戦争をして「第0次大戦」という呼び方がはやっているそうだ。その呼び方については諸説あろうと思うけど、世界的規模での戦争というのであれば13世紀のモンゴルの大西進も世界大戦と位置づけられる(実際、そう主張している学者がいる)。これは「第-3次世界大戦」(補足:「だいマイナス3じせかいたいせん」と読む)ぐらいになるのかな?

ちなみに、日露戦争を「第0次世界大戦」と位置づけるのであれば、当然朝鮮戦争も「第3次世界大戦」となる。実際に朝鮮半島に派遣された国連派遣軍は米韓含めて22カ国軍に及び、対する中国・北朝鮮軍の他、ソ連軍が中国人民義勇軍に扮して参加しているので、「世界大戦」と呼ぶにふさわしい規模。

私は「朝鮮戦争」をして「第3次世界大戦」とする見方をかなり前から持っていたが、日露戦争を「第0次世界大戦」とする見解は持っていなかった。しかし、日露戦争が第1次世界大戦に至る国際関係を形成したという意味で世界史的に大きなターニングポイントになったという認識はもっていた。

日本史では、日露戦争をめぐる日ロ関係と日本の国際社会での地位向上ばかりが取り上げられるが、いかに当時の国際社会へ影響を与えたかを教えないと、この世界史的事件の本質を見誤ることになる。それは、この戦争の勝利に幻惑された後の軍部・政治家たちと同じ道を歩むことにもつながる。

現在ある日露戦争関係の書籍を読んでみれば判るように、日露戦争は欧米列強のパワーバランスが少なからず影響を及ぼしている。イギリスは中東・東欧におけるロシアの影響力低減を狙い、ドイツは極東での影響力拡大をねらって黄禍論をもってロシアをそそのかした。

まあ、日本とロシア以外の列強諸国は両者共倒れをひそかに願っていたわけだが、それは当然、これら2国が戦争で衰退すれば、世界分割でのライバルが減って他の帝国主義諸国にとっては都合がよかったからに他ならない。いわば日露戦争は「勢力と均衡」のパワーポリティクスを象徴する典型的な事件なのだ

「第0次世界大戦」というのは、このようなパワーポリティクスの象徴としての列強諸国間の争いとして捉えた場合の見解ということがいえるだろう。しかし、第1次・第2次世界大戦との決定的な違いは、日露戦争は参戦国が限定され、総力戦ではなかったということから、このネーミングには違和感がある。


「第0次世界大戦」という言葉は10年近く前から称えられているようですが、一般的にその言葉が多用されるようになってきたのは、2010年12月27日放送の「NHKスペシャル プロジェクトJAPAN 《坂の上の雲》の時代 第0次世界大戦~日露戦争・渦巻いた列強の思惑」という番組が放送されてからのようです。

【関連情報】
プロジェクトJAPAN ‐ ドキュメンタリー坂の上の雲の時代 第0次世界大戦(NHK)

司馬遼太郎の著作「坂の上の雲」のTVドラマ化と連動して放送された企画モノの番組で、かなりの反響があったようです。

実際に「第0次世界大戦」でググッてみると、このテーマを取り上げたブログ記事がかなりの数ヒットします。

で、この日露戦争を第1次世界大戦への前哨戦として捉え、「第0次世界大戦」と位置づける考え方については、先のツィッターでの私のつぶやきをご覧いただければわかるように、ちょっと変じゃないと思ったりするわけです。

実は、「参戦国が限定され、総力戦ではなかった」という点だけではなく、前哨戦という認識から「第0次世界大戦」と考える主張にも疑問をもっていたりします。

なぜなら、この戦争の結果、列強諸国の国際関係は大きく塗り替えられることになってしまったからです。

それまで敵対関係にあったイギリスとロシアが、この戦争後に協商関係を結んで接近し、それに伴ってロシアの同盟国で、これまたイギリスと険悪な関係にあったフランスとも協商関係を結ぶことになります(三国協商)。

世界分割をめぐってしのぎを削っていた英・仏・露三国の接近は、外交革命と呼ばれるほどに前代未聞の事件であったのです。

つまり、日露戦争当時と戦争後では全く国際関係が塗り替えられてしまっており、しかも日本とロシアもその後、(形式上)友好国としての関係をとりむすぶことになります。

こういった理由から、「前哨戦」というのはちと違うんじゃない?という疑問をもった次第。

あと、なぜ三国協商が成立することになったのかということを付け加えておきたいと思います。

通説となっている考え方としては、

1) 戦争とそれに伴う革命騒動によって国力が弱体化したロシアは、イギリスに対抗しうる力を保持することができず、結果イギリスに譲歩した

2) ロシアの弱体化に伴い、英・仏・露の世界政策に露骨な干渉をするドイツ帝国の驚異が顕著となったから

というものがあります。

特に2番目が三国協商成立の大きな要因といえるでしょう。
[PR]
by mmwsp03f | 2012-01-30 00:53 | HP(歴史)
アドルフ・ヒトラーと共にその悪名を轟かせた旧ソ連の独裁者スターリン(本名ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・シュガシヴィーリ)の娘のラナ・ピータースさん(ロシア旧名:スヴェトラーナ・アリルーエワ)が,11月22日に結腸癌(colon cancer)で亡くなったそうです。

ちなみに,スターリンとは「鋼鉄の人」という意味合いを持つ言葉だそうですが,トロツキーによれば「スターリ」が正しいとのこと。

ラナ・ピータースさんの死去を伝える産経エクスプレスの記事
歴史の生き証人であった人がまた一人,この世を去ってしまったわけです。

彼女は,秘密のヴェールに包まれていたスターリンの日常を知る人物として,非常に重要な存在でした。
特に,スターリンの人間性を知る上では欠かすことのできない証人として,数々のドキュメンタリー作品のインタビューに答えています(当然CIAなどの国家機関の聴取も受けています)。

例えば,エドワード・ラジンスキーの『赤いツァーリ ― スターリン,封印された生涯』という著作にもスターリンの人柄を描写した彼女の証言が登場してきます。

赤いツァーリ―スターリン、封印された生涯〈上〉

エドワード ラジンスキー / 日本放送出版協会


赤いツァーリ―スターリン、封印された生涯〈下〉

エドワード ラジンスキー / 日本放送出版協会


スターリンの人物評として報道記事の中に「非常に単純で粗暴であり、残酷な男」という表現がありますが,これと似たことを言った人物にレーニンがいます。

レーニンは最後まで,スターリンに共産党とロシアの将来を託すことに不安を感じていたようですが,その懸念は現実のものとなり,恐怖政治による硬直化した社会を築き上げ,最終的には1991年にソ連崩壊に至る布石を着実に築き上げていくことになります。

そしてスターリンは,粗暴で残忍なだけではなく,非常に猜疑心が強く嫉妬深い人物であったことが知られています。
いわば,彼の恐怖政治はこの猜疑心と嫉妬心が作り上げたものだったのです。

たとえ,彼に忠誠を誓い,彼を恐れて逆らおうとしない人物であっても,一度頭角を現すと要注意人物としてインプットされ,何かのちょっとしたキッカケで粛清されるということが日常的に行われていたのです(親族であっても例外ではなく,彼の逆鱗に触れることがあればいつの間にか消えているということもありえたのです)。

そのくせして,彼の最大の敵であったヒトラーを信用して,ドイツ軍が国境を越えて侵攻してきても,しばらくの間はドイツ軍が攻めてくるはずがないと言い張っていたらしいですが・・・(どうやらスターリンは,当時のドイツはソ連に攻め込む余裕が全くないという目算を持っていたらしいです)。

さて,死亡報道の記事には,独裁者の代名詞として国の内外を問わず恐れられたスターリンの娘ともなれば,なかなか普通の生活を営むのは難しいということが簡単にですが書き綴られています。

ソ連からの亡命後の生活について,政治的囚人と同じで「自由な日は一日としてなかった」と語ったと伝えられていますが,それは恐らく亡命前のソ連でも同じだったことでしょう。

スターリンの死後,権力を掌握したフルシチョフは「スターリン批判」によってスターリン体制からの脱却を声高に主張していましたから,そのような雰囲気の中,ソ連国内でスターリンの親族に対する逆風が吹き荒れていたことは容易に想像できます(だからこそ亡命し,ソ連崩壊後もロシアに帰国しなかったのでしょう)。

実際,記事の中にも書かれてありますが,彼女の人生は時代に翻弄されたというよりは,スターリンという存在によって狂わされたといえるでしょう。

本人ではないのに独裁者の親族であるというだけで針のむしろに座らされるような日々を送らなければならないというのは,犯罪者の親族にも共通するところがありますね。

ご冥福をお祈りします。

【関連情報】
スターリンの娘、スベトラーナ・アリルーエワさんが死去(時事ドットコム)
亡命、4度の結婚、親戚との確執… スターリンの娘、波乱の人生に幕(産経ニュース)
スターリンの一人娘、米で死去 「父のせいで、どこにいても政治的囚人だった」(産経ニュース)
[PR]
by mmwsp03f | 2011-11-30 15:03 | HP(歴史)

セダンの呪縛

本日、9月2日は「セダン・デイ」です。

「セダン・デイ」とは、フランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンを中心とするドイツ諸邦の連合軍に敗北を喫し、そのまま囚われの身となった普仏戦争(1870~71)の趨勢を決した戦いの記念日です。

プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの挑発に乗ってオーストリア=ハンガリー帝国を除く北ドイツ連邦とバイエルン王国中心とする南独諸邦の連合軍との開戦に踏み切ったフランス皇帝ナポレオン3世は、戦闘準備もままならないままに開戦に踏み切り、速攻を仕掛けるプロイセン軍の作戦に翻弄されたフランス軍は、国境の町ウィサンブールにて敗北を喫し、体勢を立て直す余裕を与えられることなく緒戦から連敗続きでした(実は、勝ち目がないわけではなかったのですが、フランス軍総司令部内における作戦指揮における混乱と対立から効果的に軍を展開できなかったため、プロイセン軍の機動戦に敗れることになったそうです)。

やがて、ナポレオン3世は1870年9月1日にセダン城においてドイツ諸邦軍に包囲され、2日間にわたるドイツ諸邦軍の総攻撃を受けて、翌2日にはマクマオン元帥指揮下のフランス軍主力8万3千人とともに降伏。これをもってフランス第2帝政が事実上崩壊しました(記録上は、9月4日のパリにおける共和制宣言により第2帝政崩壊となっています)。

ちなみに、この時攻撃に参加していたビスマルクは、ナポレオン3世がセダン城にいることを知らなかったそうで、てっきり皇帝はパリにいるものと思っていたようですが、実は自分たちの目の前にいたというわけです。

ビスマルクにしてみれば、ナポレオン3世が捕虜になるのは計算外のことで、このことで帝政が瓦解し、新政府が成立することになるのは容易に想像ができます。
つまり、戦争を始めた張本人と終戦の交渉を行うことができなくなることを意味しており、戦争が長期化する恐れがあったのです。

案の定、9月4日にパリで第三共和制が宣言されてからのフランス国内情勢は混迷を極め、和平派と徹底抗戦派との内乱に発展し、パリ・コミューンという社会主義者による政権が成立することになります。

ここいらへんの詳細については、大佛次郎(おさらぎじろう)の名著『パリ燃ゆ』に記されています。

新装版 パリ燃ゆ I

大佛 次郎 / 朝日新聞社


さて、このナポレオン3世がドイツ諸邦連合軍に投降した9月2日は、ドイツにとってはヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」においてドイツ帝国成立が宣言された1871年1月18日と並ぶ、輝かしい戦勝記念日として記録されることになりますが、フランスにとっては最大の屈辱と憎悪の記念日として人々の間に記憶されることになります。

この「セダン・デイ」(セダン記念日)は、これ以降、第2次世界大戦に至る独仏関係を縛りつける鎖の象徴となり、歴史における重要な転機となります。

実は、第1次世界大戦におけるドイツ軍の緒戦における作戦計画(シュリーフェン・プラン)で、「セダン・デイ」である9月2日は対仏作戦完了目標日となっていました。
ドイツ側は過去の戦勝にあやかってゲンカツギとして、この日を目標日にしていたんですね。

なお、フランス側にとってセダンの戦いは、第1次大戦、第2次大戦を通してドイツ軍との戦いの際のトラウマとして、何度となく頭をもたげてくる悪夢として刻み込まれることになってしまいます。

日本では、あまり有名ではない記念日ですが、世界史的に見ると「セダン・デイ」は大きな意味をもつ、非常に重要な事件であったのです。

【関連情報】
普仏戦争(Wikipedia)
シュリーフェン・プラン(Wikipedia)
[PR]
by mmwsp03f | 2011-09-02 23:35 | HP(歴史)

細菌戦部隊の影

本日の記事は、なんとなく宣伝じみた内容となっています。

実は、私の知り合いがとあるNPO法人の共同代表となりまして、それじゃあネット上でPRしましょうという話になったので、とりあえず自分のブログでご紹介と相成りました。

ちなみに、その知り合いというのが近藤昭二という人で、とあるNPO法人というのが「731部隊・細菌戦資料センター」という団体です(事務局となっているのが一瀬法律事務所というところで、下のリンク先のトップページの一番下に連絡先が表示されています)。

【関連情報】
NPO法人 731部隊・細菌戦資料センター

さて、この近藤昭二という人ですが、ジャーナリスト、脚本家、作家、テレビ朝日番組プロデューサー・ディレクター等の経歴をもち、三億円事件731部隊関連の著述・研究等をライフワークとされている人物です。

【関連情報】
講師プロフィール・近藤昭二(NPO法人 シニア大樂)

福島原発問題を機に、近藤さんが脚本を手がけた「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(1985)という、原発ジプシーと呼ばれる原発で働く日雇い労働者の問題、原発事故とそれを隠蔽しようとする電力会社・警察・暴力団の癒着の問題を取り上げた映画がわかに注目されているそうです。

さて、この731部隊をめぐる歴史問題を国家的問題として後世に伝えるべく、散逸した資料を収集・整理し、啓蒙することを目的とした団体です。
このほかにも、 中国の細菌戦被害者(つまり人体実験により被害を受けた人)への支援活動や日本政府への情報開示請求、国連人権委員会への働きかけなども行うようです。

近藤さんは、長年にわたって収集してきた731部隊の情報をこのNPO法人に供出し、共同代表として名乗りを上げたわけです。

731部隊の活動については、まだ不明確な部分があり、日本近代史の暗部の解明していく一端を近藤さんが担っているというわけです。

この731部隊については、過去に当ブログで取り上げた「登戸研究所」と深くかかわっていますので、興味がある方はそちらの記事もご覧ください。

【関連記事】
第九陸軍技術研究所(その1)
第九陸軍技術研究所(その2)
第九陸軍技術研究所(その3)
第九陸軍技術研究所(その4)
第九陸軍技術研究所(その5)
第九陸軍技術研究所(その6)

日本近代史、731部隊、細菌戦等の歴史に興味がある方は、先に提示したNPO法人のサイトにアクセスしてみてください。
なお、現在会員募集中だそうですので、興味・関心のある方は振るってご参加ください。
学習会・講演会などを開催しているそうですので、1回それに参加してみて入会するかどうか判断するのも手ですよ。
[PR]
by mmwsp03f | 2011-06-05 08:48 | HP(歴史)

日系米軍部隊の栄光

MSNに配信されている産経新聞のコラムに,第2次大戦中に活躍したアメリカ軍の日系人部隊に関するものがありました。

戦後65年を経た今,アメリカ陸軍日系人部隊(第442連隊戦闘団)に議会名誉黄金勲章という合衆国における最も栄誉ある勲章の一つが授与されることになったそうです。
この部隊は,それまでにも犠牲を省みない戦場(西部戦線)における数多くの目覚しい活躍によって,陸軍史上最多の叙勲を受けた部隊として知られているそうです。

この栄誉ある日系人部隊に関するドキュメンタリー映画が,すずきじゅんいち監督によって制作され,今年の第23回東京国際映画祭で一般に公開されることになったそうです。
映画のタイトルは,「442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍/442 -LIVE WITH HONOR, DIE WITH DIGNITY」。

かつて,「二世部隊」(1951年)という日系人部隊を題材としたモノクロ映画がアメリカで製作されたことがありますが,これは史実を基にしたフィクションで,ノンフィクション映画として製作されたのは今回が初めてのようです。

私も,ハワイやカリフォルニアなどに移住していた日系人たちが,日米開戦と同時に敵国人・スパイとして収容所に抑留され,人種差別とも戦いながらアメリカ国民として志願兵して西部戦線で戦ったということは知っていましたが,あまり詳しく調べたことはありませんでした。

日本では,このアメリカ陸軍の日系人部隊については良く知られてはおらず,NHKが番組で取り上げたことがある程度だったと思います。

今回,すずきじゅんいち監督によってこのドキュメンタリー映画を製作したのは,日系人たちが自らの血を流して切り開いてきた歴史の一時代を風化させてはならないという思いからのようです。

我々も,あまり知られていない海外の日系人たちの活躍を目にする良い機会だと思いますので,ご覧いただくことをお勧めします。
恐らく,我々とは異なる道を歩むことになった同胞が多大な犠牲を払って獲得してきたものが何だったのかを目の当たりにすることが出来るのではないかと思います。

【関連情報】
【産経抄】10月25日(産経ニュース:2010.10.25 03:25)
442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍/442 -LIVE WITH HONOR, DIE WITH DIGNITY(TIFF第23回東京国際映画祭公式サイト)
映画「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」(MILITARYBROG)
「二世部隊」(キネマ旬報映画データベース)
第442連隊戦闘団(Wikipedia)
「ダッハウ収容所」を解放したアメリカの「日系人部隊」(ヘブライの館2)
[PR]
by mmwsp03f | 2010-10-25 23:14 | HP(歴史)

コインの顔

リクルートの「Web R25」で,通貨に関するなかなか面白い記事が掲載されていました。

【関連情報】
知ってなるほど"お金"トリビア:第3回
お札にはなぜ肖像画が描かれているの?
(Recruit WebR25:2010.9.8)

通貨に肖像画を表示するのは主に偽造防止のためで,そのようなこともあってヒゲ面(記事では,ヒゲヅラではなくヒゲメンなどと表記していますが…)の人物が多く採用されているとのこと。

そのほかにも「親近感」とか「判別のしやすさ」ということもあるそうです。

まあそうですよね。
会話の中で一万円札のことを「諭吉」なんていったりして,確かに「親近感」ありますし,財布から出すときも顔見て判別することが多いですからね。
だけど,ふしぎと千円札を「漱石」とか,五千円札を「一葉」とか言わないんですよね。

で,この記事の中で特に興味を持ったのが,フランス国王ルイ16世一家が国外逃亡を図ってヴァレンヌ村の住民に捕縛されたヴァレンヌ逃亡事件に関する逸話。

変装していたのにもかかわらず,なぜか地元住民にバレて捕まってしまったルイ16世。
それは,当時フランスで流通していた紙幣にルイ16世の肖像が印刷されており,それを見て知っていた住民がルイ16世だと見破ったとのこと。

いやあ,ずいぶんリアルに描かれていたんですねえ,ルイ16世の肖像画。
大概,当時の支配階級(王侯貴族,僧侶)は自分を美化して描かせたりしたもんですが,錠前いじりが唯一の趣味のルイ16世は,そういうことには無頓着だった。
というよりは,自分を飾ることがなかった真正直な人柄だったのでしょうね。

現代では,政治家だけではなく文化人の肖像画を通貨に表示したりしたものですが,昔は通貨の肖像というと,すべからく国王や皇帝などの支配者の肖像や支配者を象徴する宗教的アイテムでした。

特にアケメネス朝ペルシャ帝国やアレクサンドロス帝国などの古代王朝の通貨をご覧になったことがある方であれば,これらの貨幣にはダレイオス1世やアレクサンドロスら支配者の肖像が刻印されたことはご存知でしょう。

ダレイオス金貨というアケメネス朝時代の金貨などは,コレクター垂涎の的らしいですね。

なぜ,このような支配者の肖像入りの貨幣を流通させていたのかというと,それは自らの支配領域(テリトリー)を主張するためです。
つまり,自らの支配する帝国・王国を政治的にも経済的にも支配下にあることを示すための象徴的アイテムということです。
また,自らが直接支配していない地域においても,この通貨が使用されていることによって,自らの影響力が及んでいることを示すことができます。

まあ,古代国家には国境という概念はありませんでしたので,このような方法によってテリトリーを主張していたりするわけです。
通貨の他にも文字や測量単位の統一などの方法によって,テリトリーを主張するということもあります(典型的なのが,中国の秦帝国)。

歴史的に見ても,通貨というのは支配のアイテムとして重要な役割を担ってきました。
その支配の象徴として肖像画を表示していたのですが,各国通貨の交換を基調とする国際為替システムが発達した現代では,テリトリーを示すアイテムとしての意味合いはかなり希薄になってきています。

それに伴って「通貨の顔」は「『偽造防止』『親近感』『判別のしやすさ』などの理由」によって表示するというように目的が変わっていったのでしょう。

通貨の歴史というのもなかなか面白いものです。
関心がある方は,こちらをどうぞ。

貨幣の日本史 (朝日選書)

東野 治之 / 朝日新聞社


コインの考古学―古代を解き明かす (大英博物館双書)

アンドリュー バーネット / 學藝書林


歴博フォーラム お金の不思議―貨幣の歴史学

山川出版社



【関連情報】
ワールド・コイン・ギャラリー:コイン豆知識(ティアラ・インターナショナル株式会社)
古金貨に夢を追う――李念祖(台湾光華雑誌)
[PR]
by mmwsp03f | 2010-09-16 10:41 | HP(歴史)
9月1日は防災の日で,この日は各種交通機関やオフィスビルなどで避難訓練が行われると思いますが,どうもこの避難訓練というのは参加者のやる気が見られず,ただ形式的に行われているところが多いように見受けられます。

実際,これまで参加したことのある防災訓練の経験から言わせてもらえば,真剣に訓練をしている人っていうのをついぞ見たことがありません。

火災が起こって高層ビルから階下へ避難するという設定で避難訓練が行われた際には,みんな雑談しながらちんたらと階段を下りていく始末。
実際に建物の外へ出て,集合確認を行うまで30分は要していて,本当に火災が起こっていたら全員窒息死か焼死確定といった按配。

企業自体が防災訓練に積極的に取り組もうとしていないことは明らかで,訓練の際の段取りなどまったくなし。
「本日は防災訓練があります。合図と共に指示に従って速やかに避難しましょう」程度の館内アナウンスで社員に告知がある程度。

そして避難訓練終了時に消防署員からの注意事項や防災告知などがあって,なんとなく終了。

このような怠惰な雰囲気で義務的に訓練を終わらせようという傾向が,本当に火災が発生したときに多くの被害者を出すことになります。

実際に真剣に防災訓練に取り組んでいるのは,それを仕事としている人たちばかり。
本来は建物を管理する立場の人たち,社員を管理する立場の人たちがきっちり訓練を仕切って,いざというときに備えないとならないはずなんですが,

昔からよくある傾向なのですが,こういう訓練をまじめにやると「なに熱くなっているんだ」とばかりに冷やかす悪い傾向があります。
真剣に物事に取り組む人を冷やかして,やる気をそぐということはビジネスの現場でも見られたりするのですが,そういう傾向が日本経済の活気をそぐ原因となっているとも思えるんですけどね。

ところで,9月1日は関東大震災記念日でもあります。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、ちょうど昼食の準備で忙しいときにマグニチュード8に到達せんばかりの大地震(実際にはマグニチュード7.9)が起こり,現在記録に残る日本の自然災害の中で最大規模を誇る損害をもたらしました。

【寿小学校より見た横浜市の震災風景】
(Wikimedia所蔵画像)
焼け野原になっているところから,火災による延焼被害の大きさを知ることが出来る。

その時の損害のおおよその概要は下記の通りです。
家屋の全半壊25万戸以上
焼失家屋44万戸以上
津波による流失家屋868戸
死傷者20万人以上
行方不明者4万人以上

このデータから,地震による倒壊家屋よりも焼失家屋がはるかに多く,地震の後に発生した火災がより被害を拡大させたことがわかります。
実は,震災で最も怖いのは,地震そのものではなく2次災害である「火事」の方なのです。
特に昼時であったところから,火を使っていた家庭が多く,延焼範囲は非常に広範囲に及んでいます。
しかも木造家屋が多く,消防設備も充実していなかったことから延焼のスピードもかなり早かったようです。

さらに,このデータではわかりませんが死傷者と行方不明者の中には,この震災による集団パニックによって被害にあった方々も含まれています。

こういう非常事態のときは情報が遮断され,未確認情報(いわゆる噂)によって被災者は混乱し,果ては根拠のないデマによって暴徒化するといった事態が確認されています。
例えばWikipediaにも掲載されていますが,朝鮮人らが放火して回っているとか,井戸に毒を放り込んでいるなどの根拠のないデマが流れ,朝鮮人や中国人などの在留外国人がリンチにあって虐殺されるというような事件も起こっています。

災害発生時には,人間は正常な判断力を維持することが非常に難しくなります。
特に何も備えをしていなければ……。

皆がパニック状態に陥って被害が拡大するということは,災害時に対する対処の仕方がわかっていないからに他なりません。
たとえ情報がシャットアウトされていても,事前にどういう行動をとればよいのかわかっていればパニックに陥ることはありません。

特に,施設や人を管理する立場の人は,率先して災害時における対応方法を学び,訓練には積極的に関与することが必要です。
緊急時にこそ,このような人々のリーダーシップが問われるのです。

わざわざ関東大震災記念日を「防災の日」としたのは,この震災の歴史的教訓を後に伝え,災害時の対応を確認するためにほかなりません。

皆さん,くれぐれも「防災の日」と防災訓練を甘く見ずに,真剣に災害に取り組む姿勢を身につけましょう。

【関連情報】
防災の日:初の「3連動地震」想定で訓練(毎日jp:2010年9月1日10時15分)
防災情報のページ(内閣府)
防災の日と二百十日:消防マメ知識―消防雑学事典(東京消防庁)
[PR]
by mmwsp03f | 2010-09-01 11:45 | HP(歴史)
革命の危機―チェコスロヴァキア軍団事件と反革命戦争(13)・悪化する関係(歴史の隙間―とある事件の記録)

本日,約1ヵ月半ぶりに歴史サイトの更新をしました。
以前は毎週更新していましたが,なんだかんだといろいろありまして,ずいぶん間をおいての更新となりました。

今回の目玉。

皆さんよくご存知のスターリンが登場します。
といっても,ほとんどお使い程度の役割で,あまり重要な場面で登場してくるわけではないですが。

今回の連載で主役級の役割を果たしているのは,実はトロツキーだったりします。
反革命戦争・対ソ干渉戦争で軍事人民委員として敵対勢力の撃退に大いに手腕を発揮したトロツキーですが,一方で彼はボリシェヴィキ革命を危機に陥れた張本人の一人であったりもします。

なぜトロツキーが革命を危機に陥れることになったのかは,続きをご覧あれということで・・・。
あと,数回でその真相が暴露されます。
[PR]
by mmwsp03f | 2010-08-15 10:00 | HP(歴史)

夏は戦争の季節

8月6日は広島,9日は長崎にそれぞれ史上初の核兵器による惨劇がもたらされた日として記憶され,毎年追悼行事・核兵器反対のセレモニーが行われます。
終戦記念日の8月15日よりも重要な日として,政府関係者,各国の代表等も参加して毎年必ず平和記念式典が開催されていますが,今年はこれまで出席を固辞してきた核保有国3ヶ国の米英仏代表が参加することによって,これまで以上に意義のあるセレモニーとなったようです。

【関連情報】
広島弁で核廃絶訴え「あっちゃいけん」 原爆忌、犠牲26万9446人(産経新聞:8月6日10時18分)
広島原爆の日:米英仏代表出席「廃絶に希望」 被爆者団体(毎日jp:2010年8月6日 11時47分)
広島平和式典 国連事務総長が核廃絶を訴える(CNN.co.jp:8月6日11時57分)

日本では,終戦(敗戦)が夏の真っ只中であったところから,夏は「戦争を回顧する季節」であり「戦争を考える季節」とされるようになりました。
この時期は,特にメディアで戦争に関する特番も増えますので,いやでも戦争を意識させられます。

現代の日本では,夏は「戦争が終わった季節」という認識が一般的ですが,歴史的な視点に立ってみると,夏は「戦争が始まる季節」なのです。
特に,季節の移り変わりがある地域では,夏に戦争が起こることが圧倒的に多いのです。

なぜ,夏に戦争が勃発するのかというと,晩春から秋口に軍隊を動員して作戦行動を遂行するのが最も都合がよいからです。

これから戦争をしようという者(政治家や軍人)は,最初から1年以上の長期に及ぶことを見越して戦争をしようと普通は思いません。
大抵が,2~3ヶ月程度の短期間で決着をつけようと考えるのが普通です。
なぜなら,戦争が長期化すればその分国家財政が逼迫し,国民の継戦意欲を維持するのが困難だからです。

そして,冬になると防寒用の装備も必要になってきますし,なんと言っても軍隊の動きが寒さによって鈍くなります。
寒波が襲ってきたり,雪が降ってこようものなら凍傷はては凍死の危険性が伴います(当然,戦争は野外で行うものですから)。
当然のことながら兵站(軍需物資の供給・輸送)の維持も困難になってきますし,兵器の故障も増加します。

だから,冬が本格化する前に2~3ヶ月の短期間で決着をつける作戦計画を立てて,軍隊が行動しやすい時期である夏に戦争を起こすのです。

第一次世界大戦で,ドイツ軍が1914年8月2日に軍事行動を起こしてルクセンブルク,ベルギーに侵攻したのは,冬が本格化する前(11~12月初頭)にフランス軍に決定的な勝利を獲得し,ロシア軍の行動を阻止する目算があってのことでした。
もし,これが9月に入っていたとしたら,ドイツ軍が作戦行動を起こしたかは微妙ですし,10月であればほぼ確実に中止となっていたことでしょう。

ヒトラーがポーランドに侵攻したのは1939年9月1日でしたが,これは作戦行動上ぎりぎりの時期でした。
実際には対ポーランド戦は8月中に実行される予定でしたが,ヒトラーが延期に継ぐ延期を繰り返したため9月1日になったそうです。
参謀本部では,この時期を逃したら来年の春になるまで開戦持ち越しと考えていたようです。


最近の戦争の例だけではなく,中世(封建制の時代)以降,戦争は季節が大きくかかわってきます。
特に気候が大きな影響を与える農業生産は,戦争に大きな影響を及ぼしてきました。

日本の場合はそうでもないのですが,ヨーロッパの場合は戦争をする時期はほぼ決まっていて,秋から冬にかけては戦争はお休みとなることが多かったのです。
特に封建制全盛期には,秋は収穫の季節になるので,収穫期前に戦争を終わらせるというのは君主と臣下との間の了解事項になっていました。

封建軍隊の兵隊は農民兵が圧倒的多数でしたから,作付けと収穫における労働力でもあった彼らにいつまでも戦争ばかりさせるわけにはいきません。
当然のことながら戦争が長引けば収穫は滞るので,封建領主は「お飯の食い上げ」となってしまいます。
君主が収穫期になっても戦争を終わらせようとしない場合,封建領主はさっさと手勢を率いて自分の領地に引き上げてしまって,君主は戦争を継続できずに休戦するということが往々にして見られたそうです。
これは,ヨーロッパの封建制度はなかなかドライな契約関係によって維持されていたことを示すエピソードでもあります。

まあ,いつの時代においても「夏」という季節は生物が最も活動しやすい時期に当たるわけです。
だから戦争は夏に起こりやすいといえるのです。
つまり,戦争というものも気候・気象条件という自然の制約を受けるということですね。

「戦争を考える季節」にあたって,特に学生の皆さん。
戦争をただ単に悲惨な事件として振り返るのではなく,どうして起こるのかをも併せて考えてみてください。

その原因・理由を追究するということは,人間の本質を知る更なる一歩となるはずです。
[PR]
by mmwsp03f | 2010-08-06 13:54 | HP(歴史)