不完全な日本の母国語教育
2012年 10月 11日
グローバル化の動きに合わせて,英語の社内公用語化や小中学校におけるより実践的な英語教育の導入とかが話題になっていますが,それ以前に日本語教育をどうにかしたほうがいいんじゃないかという意見もあります。
英語教育以前に日本語教育をきちんとすべきという意見の正当性を裏付ける現実は,そこかしこに見られるわけですが,その割には文部科学省のエリートの皆さんは全く眼中にない様子。
下にあるような,おかしな日本語表現を指摘する本って,書店に行くとよく見かけますよね。
その表現は間違っています。正しい日本語表現はこうですよ。という指南書は数多く出版されているのですが,実際のところ,それが教育の現場で生かされているとはいいがたいのが現状です。
日本の教育は,今までインプット中心でアウトプットがおろそかにされてきました。
あ,ちなみに試験で自分の知識を問われるのは,この場合アウトプットとはみなしません。どちらかというとプリントアウトに近いかな。
コンピュータとかの場合,アウトプットというとインプットされた内容を忠実に再現することを意味していますが,人間の場合,様々な解釈や表現上の装飾,文言の付加または省略などが施されていたりしますので,インプットされた内容の忠実な再現ではありません。
まあ,へたをするとインプットされた内容と全く違うものが言葉としてアウトプットされてしまう危険性があるわけです。
「言いたいことの半分も言えなかった」という経験は誰しもあると思いますが,それはなぜかと言えば,十分なボキャブラリーが培われていないからに他なりません。
つまり,言葉の意味,適切な言葉の使い方,使える言葉の種類などが身についていないからです。
ちゃんとした日本語表現の訓練をしていれば,いらぬ誤解を招いたりすることも少なくなって,対人コミュニケーションもより円滑になると思うんですけどね。
では,文筆を生業としている文章のプロはどうでしょうか?
正直言って,良いとは言えないのが現状ですね。
たとえば,産経新聞の下記の記事。
【ニュースソース】
■【主張】「尖閣」政務官発言 許されぬ実効統治の否定(産経ニュース)
ちゃんと推敲しているのか,大いに疑問なコラムです。
この記事の中で,特にここに注目!
産経新聞は,韓国による竹島の実効支配についても批判を展開しているわけですが,そのくせして尖閣の実効支配は領土の重要な要素で決定的な意味があるとしています。
この論法で言うと,竹島は韓国の領土と認めているようなものです。
産経新聞は,そのことにちっとも気づいていないようですがね。
ちなみに,日本語表現の問題とはちょっと違うのですが,こういう大手メディアがよくやる手法で,注目を集めたいがためによくやる文脈の「間引き」も大いに問題です。
たとえば,下記の記述。
別の産経の記事でも
単に鷲尾英一郎政務官のボキャブラリーのなさからの発言なのか,何か別の意図があっての発言なのか,ただ単に「中国政府の所有にしたっていい」という言葉だけが独り歩きしているような感じです。
こういう意図的な文脈の「間引き」をする前に,記事を書く側の文章力を何とかしてほしいものです。
ちょっと本筋から外れてしまいましたが,要するに文章のプロであるはずの新聞記者がこの体たらく。
英語教育の拡充も必要でしょうが,それ以前に母国語教育を何とかしないと駄目なんじゃないの?と思うわけです。
試験に合格しなければ小学生でも留年がある母国語学習が徹底したフランスのようになれとは言いません。
せめて,インプット中心の学習からアウトプット学習を取り入れたバランスの良い教育システムへの転換を図るべきじゃないかなと思うのです。
具体的には,ディベート学習の機会をより多く設けること。
これまでの日本の教育は受け身中心で,自分が学習した成果を表明する機会は筆記試験にほぼ限られています。
実際に言語を使う場面というのは紙に書いてマルをもらう場面ではなく,他者との対面での会話の中で相手の表情やしぐさなどを観察しながら意思疎通を図る場面です。
受け身の教育が身にしみついた子どもたちは,必然的に自分の意見を発することが少なくなります。
当然,学級会とかで意見を求められても,「特にありませ~ん」となります。
めんどくさいということもあるでしょうが,自分の意見をうまく相手に伝えるコミュニケーション技術が培われていないため,引っ込み思案になってしまうのです。
そうなれば,結局お互いのことが解らないまま,相手のことも知ろうとしないという環境が形成されてきます。
学校という集団の中にいながら,個々人が孤立していくという状況に陥っていくわけです。
このような環境でいくら英語教育を徹底したところで上達の見込みはほとんどないでしょう。
母国語でのコミュニケーションがうまくできない状態で外国語のコミュニケーションがうまくいくはずありません。
まずは,母国語によって「相互理解」を深めるための技術をディベート学習を通じて養っていくことが大前提でしょう。
この「相互理解」ってところが,私は「いじめ問題」への有効な手立てにもなると思っています。
会話のない関係は,コミュニケーション形成の機会を奪うだけではなく,相手を「怪しい人物」とみなすようになり,疑心暗鬼の関係を築きあげることになります。
それに対して意見をぶつけるというディベートは,「歩み寄り」「相互理解」の機会を与えてくれます。
相手が正体不明な人間だから,係わり合いになりたくない,排除するという方向へと陥ってしまうのだと思います。
母国語教育の本来のあるべき姿は,単に正確な表現で相手に自分の意思を伝えるというだけには止まりません。
どういう場面で,どのような表現を使ったら相手に自分の意図を理解してもらえるのかを理解させることも必要不可欠です。
当たり前のことですが,言語を使ったコミュニケーションは「相互理解」を基本としています。
ところが,現在の母国語教育は「相互理解」のための技法を身についけるようにはできていません。
外国語教育拡充の前に,まずやらなければならないのは母国語を活用したコミュニケーション技法を身につけさせることではないでしょうか。
英語教育以前に日本語教育をきちんとすべきという意見の正当性を裏付ける現実は,そこかしこに見られるわけですが,その割には文部科学省のエリートの皆さんは全く眼中にない様子。
下にあるような,おかしな日本語表現を指摘する本って,書店に行くとよく見かけますよね。
その表現は間違っています。正しい日本語表現はこうですよ。という指南書は数多く出版されているのですが,実際のところ,それが教育の現場で生かされているとはいいがたいのが現状です。
日本の教育は,今までインプット中心でアウトプットがおろそかにされてきました。
あ,ちなみに試験で自分の知識を問われるのは,この場合アウトプットとはみなしません。どちらかというとプリントアウトに近いかな。
コンピュータとかの場合,アウトプットというとインプットされた内容を忠実に再現することを意味していますが,人間の場合,様々な解釈や表現上の装飾,文言の付加または省略などが施されていたりしますので,インプットされた内容の忠実な再現ではありません。
まあ,へたをするとインプットされた内容と全く違うものが言葉としてアウトプットされてしまう危険性があるわけです。
「言いたいことの半分も言えなかった」という経験は誰しもあると思いますが,それはなぜかと言えば,十分なボキャブラリーが培われていないからに他なりません。
つまり,言葉の意味,適切な言葉の使い方,使える言葉の種類などが身についていないからです。
ちゃんとした日本語表現の訓練をしていれば,いらぬ誤解を招いたりすることも少なくなって,対人コミュニケーションもより円滑になると思うんですけどね。
では,文筆を生業としている文章のプロはどうでしょうか?
正直言って,良いとは言えないのが現状ですね。
たとえば,産経新聞の下記の記事。
【ニュースソース】
■【主張】「尖閣」政務官発言 許されぬ実効統治の否定(産経ニュース)
ちゃんと推敲しているのか,大いに疑問なコラムです。
この記事の中で,特にここに注目!
実効的に統治していることは「領土」の重要な要素であり、尖閣が日本の主権下であることを内外に示す決定的な意味がある。どこがおかしいかわかります?
産経新聞は,韓国による竹島の実効支配についても批判を展開しているわけですが,そのくせして尖閣の実効支配は領土の重要な要素で決定的な意味があるとしています。
この論法で言うと,竹島は韓国の領土と認めているようなものです。
産経新聞は,そのことにちっとも気づいていないようですがね。
ちなみに,日本語表現の問題とはちょっと違うのですが,こういう大手メディアがよくやる手法で,注目を集めたいがためによくやる文脈の「間引き」も大いに問題です。
たとえば,下記の記述。
尖閣諸島をめぐり、鷲尾英一郎農林水産政務官が「中国政府が所有してもいい」と語った。どういう文脈でこのような発言になったのか,一言も書かれていません。
別の産経の記事でも
鷲尾英一郎農林水産政務官は10日、沖縄県・尖閣諸島について、「中国政府が所有したっていい」とした前日の自らの発言に、「(誤解を招く発言だったが)本意としては、政府が国有化したことに断固賛成だ」と釈明した。農水省内で記者団に答えた。とあり,どういう経緯でそのような発言が出てきたのかが全く触れられていません。
(鷲尾農水政務官が尖閣発言で釈明 国有化に断固賛成 藤村氏は注意)
単に鷲尾英一郎政務官のボキャブラリーのなさからの発言なのか,何か別の意図があっての発言なのか,ただ単に「中国政府の所有にしたっていい」という言葉だけが独り歩きしているような感じです。
こういう意図的な文脈の「間引き」をする前に,記事を書く側の文章力を何とかしてほしいものです。
ちょっと本筋から外れてしまいましたが,要するに文章のプロであるはずの新聞記者がこの体たらく。
英語教育の拡充も必要でしょうが,それ以前に母国語教育を何とかしないと駄目なんじゃないの?と思うわけです。
試験に合格しなければ小学生でも留年がある母国語学習が徹底したフランスのようになれとは言いません。
せめて,インプット中心の学習からアウトプット学習を取り入れたバランスの良い教育システムへの転換を図るべきじゃないかなと思うのです。
具体的には,ディベート学習の機会をより多く設けること。
これまでの日本の教育は受け身中心で,自分が学習した成果を表明する機会は筆記試験にほぼ限られています。
実際に言語を使う場面というのは紙に書いてマルをもらう場面ではなく,他者との対面での会話の中で相手の表情やしぐさなどを観察しながら意思疎通を図る場面です。
受け身の教育が身にしみついた子どもたちは,必然的に自分の意見を発することが少なくなります。
当然,学級会とかで意見を求められても,「特にありませ~ん」となります。
めんどくさいということもあるでしょうが,自分の意見をうまく相手に伝えるコミュニケーション技術が培われていないため,引っ込み思案になってしまうのです。
そうなれば,結局お互いのことが解らないまま,相手のことも知ろうとしないという環境が形成されてきます。
学校という集団の中にいながら,個々人が孤立していくという状況に陥っていくわけです。
このような環境でいくら英語教育を徹底したところで上達の見込みはほとんどないでしょう。
母国語でのコミュニケーションがうまくできない状態で外国語のコミュニケーションがうまくいくはずありません。
まずは,母国語によって「相互理解」を深めるための技術をディベート学習を通じて養っていくことが大前提でしょう。
この「相互理解」ってところが,私は「いじめ問題」への有効な手立てにもなると思っています。
会話のない関係は,コミュニケーション形成の機会を奪うだけではなく,相手を「怪しい人物」とみなすようになり,疑心暗鬼の関係を築きあげることになります。
それに対して意見をぶつけるというディベートは,「歩み寄り」「相互理解」の機会を与えてくれます。
相手が正体不明な人間だから,係わり合いになりたくない,排除するという方向へと陥ってしまうのだと思います。
母国語教育の本来のあるべき姿は,単に正確な表現で相手に自分の意思を伝えるというだけには止まりません。
どういう場面で,どのような表現を使ったら相手に自分の意図を理解してもらえるのかを理解させることも必要不可欠です。
当たり前のことですが,言語を使ったコミュニケーションは「相互理解」を基本としています。
ところが,現在の母国語教育は「相互理解」のための技法を身についけるようにはできていません。
外国語教育拡充の前に,まずやらなければならないのは母国語を活用したコミュニケーション技法を身につけさせることではないでしょうか。
by mmwsp03f
| 2012-10-11 14:25
| 日々雑感