まあ思いついたことをつらつらと書き綴っています(写真は奥多摩から見た富士山)。


by M.M@Kanagawa
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「学校」という閉鎖社会

現在の学校教育にはさまざまな問題がありますが、その中でも大きな問題として近年クローズアップされているのが、教員の資質に関するものです。

昨日15日に報道された下記の記事は、教師としての資質という以前に社会人としての資質が欠落している人物が起こした事件です(全文引用)。
【ストーカー中学教諭】3年生成績が外部流出 甲府
毎日JP:2011年1月15日 01時13分 (2011年1月15日 02時38分 更新)

教え子の女子生徒に09年1〜2月、ストーカーまがいの行為を繰り返していた甲府市立中の50代の男性教諭が同年3月、3年生全員の成績表処分を生徒に手伝わせ、流出していたことが、市教育委員会などへの取材で分かった。市教委は当時の女子生徒への行為を口頭注意にとどめ、成績表の外部流出も把握していなかった。

 市教委や学校関係者によると、流出した成績表は「素点表」と呼ばれ、3年約160人の定期試験5科目の点数が記されている。3年担当教員の進路指導用で、生徒指導主事だった教諭は他校への異動直前の3月末、顧問だった部活の3年男子部員に素点表のシュレッダー掛けをさせた。

 その際、部員が素点表を校外に持ち出し、内容を後輩に伝えたため、保護者から「成績が流出している」と学校に連絡があった。部員が「面白半分に持ち出した」と謝ったことから、教諭のずさんな行為が分かり、外部に漏れた素点表を回収した。

 一方、校長は教諭を口頭注意にとどめ、市教委に報告しなかった。県教委指針では、成績など職務上知り得た秘密を漏らすことは懲戒処分対象になる。

 市教委の調査に、教諭は流出経緯を認め、校長は「口頭指導で十分と思った」と釈明しているという。市教委の平井政幸・学校教育課長は「生徒に書類の処分を手伝わせるなど考えられない」と話している。【中西啓介】

この人物による事件から見えてくるのは、自らの教え子に対するストーカー行為を繰り返す非常識さや、個人情報の管理に対する認識の甘さというだけではありません。
学校あるいは教育行政という閉じられた環境が生み出している問題点でもあります。

このような資質の欠落した教員が起こす不祥事は後を絶ちませんが、なぜこのような事態が次々に起こってくるのでしょうか。

人を指導するのに必要な行動基準が彼らのうちに確立されていないからではないかと考えられます。
つまり、人を指導するのに必要な経験、コミュニケーションを通じての相互理解の方法などを身につける機会を持てずにきたからではないかということです。

このような社会経験が不足気味で生徒を指導するのに十分な資質を持たない人々が次々に採用されるのはなぜでしょうか?
そのことについて、私がTwitterでつぶやいてみたことをここで紹介してみます。

【以下Twitterでの連続ツィート】
このような教職員の不祥事が相次ぐのを知るにつけ、教育委員会の教員任用方法が不適切であることを実感させられる。ところが教育委員会はそのことを全く自覚していないので、教員の不祥事は絶えない>【ストーカー中学教諭】3年生成績が外部流出 甲府http://exci.to/fPg3FX

教員採用の選考は、相変わらず成績主義とコネが幅を利かせている模様。特に有力なコネがあると採用に有利だという情実任用の世界。教育行政の閉鎖性を払拭し、学校という閉じた世界を変えていくには、在野の人々が教育行政にもっとタッチできる仕組みを確立する必要がある。それは教員任用でも同様。

どうも学校の先生というのは世間ズレしている人が多いので、もっと外の世界を実地に体験させる必要があると思う。「県庁の星」というマンガがあったけれども、あれと同じように外の世界を経験することで自分が為すべきことを学んでいくことは、教職員にも必要なこと。

単に民間団体出身者を教員として採用したところで、彼らは学校という閉じた世界では少数派であり、彼らの意見やアドバイスが「学校は会社とは違うから」とかいう排他的思考によって潰されることも十分考えられる。より多くの教職員が学校外の世界での認識を共有することが、最も必要なことだと思う。

そもそも学校の教員に期待されていることは、知識の享受だけではなく児童・生徒への自らの社会経験の継承である。児童・生徒が実社会に出た際に生きていく術を教えていくことが求められている。ところが実社会での経験値の低い教員が教育の現場を占めているので社会経験の継承がうまくいっていない

結局、社会経験の乏しい学校教員が適切ではない指導を行っているがために、実社会に出て職場でのコミュニケーションもうまくできないような新社会人が多数輩出されることになる。

学校とはそもそも社会の縮図なわけですが、そこで働いている教職員や教育行政に携わる人々(教育委員会等)は、学校・教育の現場を一般社会とは違う一種独特な環境であると認識しています。
実は、学校外の社会にいる一般の人々もそのような認識を持っていることが多く、そのことが教職員に自分たちが「特別な存在」であると思わせる要因となっています。

最近ではあまり耳にすることはなくなりましたが、教師を「聖職者」であるというのも「特別な存在」だとの認識を示す考え方だったりします。

このような「特別な存在」という認識が学校内と一般社会に共有されることで、教師は「特別な存在」として振舞うことになります。
それは、独善的かつわがままな教師を生み出すことにつながることになりかねません。

教職員の中には人の意見を聞こうとせずに、自分のいうことに反論を許さない人をよく見かけます。
生徒から誤りを指摘されても、頑なにそれを認めようとしない教職員。
それが本当に人を指導するのに足る資質を備えた教師ということが出来るのでしょうか?

現場の教職員の皆さんすべてがそうだとはいいませんが、少なくとも不祥事を起こす教職員には教師としての資質以前に社会人としての資質に欠けているといって差し支えないと思います。

やはり、教育の現場を改善していくためには、一般社会との接点を増やすことが肝心だと思うわけです。
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by mmwsp03f | 2011-01-16 10:53 | 教育