成人の日に思うこと
2011年 01月 10日
昨日と今日、各地で成人式が行われていますが、近年成人の日に新成人が羽目をはずして逮捕・拘禁されるという事件がよく報道されます。
【関連情報】
■成人式「羽織、はかまなら刀」模造刀所持し逮捕(読売新聞:1月9日 17時57分)
■泥酔運転、バイク蛇行…沖縄の新成人3人逮捕(読売新聞:1月9日21時59分)
■沖縄で新成人逮捕 無免許や酒酔いで騒ぎ(社会総合 - エキサイトニュース)
まあ、昔から羽目はずして警察のお世話になっていた新成人は仰山いたわけですが、そのほとんどが急性アルコール中毒とかの成人式後の仲間内の宴会で無理したことが原因だったりして…。
近年の傾向としては成人式を妨害するというのがよく見受けられますね。
新成人の一部によるこのような事件は、ある意味、大人社会に対するアンチテーゼという性格を持っていたりします。
成人式で暴れるというのも、路上で警察官ともみ合うというのも、とうの昔に成人してしまっている大人たちが作り上げた社会の秩序に対する反発の現われなわけです。
中には、成人しても俺たちは今までと変わらないということを示したくて、このような行動をするのだとは思いますが、ところが変わっちゃうんですよね。人間って…。
やはり、ある程度経験を積むことによって分別というか社会的な行動基準というのが身についてきます。
特に暴走族などの集団行動をするような人たちは、社会秩序への順応性があるので意外と社会経験を積んで年齢を経ていくうちに無茶をしなくなってきます。
不良集団にしても暴走族にしても、集団を維持するため成員に規範(規範の代替としてのリーダーの命令)への服従を要求するので、これらの集団に参加していた人々は脱退後は自分が行動すべき基準を別のものに求めるようになります。
つまり、不良集団であれ、暴走族であれ、社会に適応して行動する方法を学習する機会を提供しているということになるのです。
その行動基準(少々難しい言葉ですが、これを「準拠」といいます)が変わることで、それまで反社会的行動をとっていた人々も、比較的容易に大人社会に順応していきます。
でもまあ、彼らはカリスマを求める傾向が強いので、自分が従うに値しないと考える大人のいうことには容易に従わないという傾向もありますが…。
問題なのは、一匹狼的な人、ひきこもりなどの社会的関係をシャットアウトしてしまっている人たちです。
彼らは、規範・秩序を受け入れることを拒否、または受け入れる機会を持たない(持てない)ため、集団行動に慣れている人々よりも思い切った行動をとることがあります。
つまり、自分の行動をセーブするリミッターが外れているか存在しない状況にあるわけです。
こういう人は、過去に集団から受容を拒否され、疎外され続けてきたので、容易に集団を受け入れようとせずに自分の殻に閉じこもる傾向にあります。
こうなってしまったのにはさまざまな理由が考えられますが、幼少時のトラウマとなっている経験(圧倒的多数は小学校や中学校などの就学時の経験)が非常に大きいようです。
このような孤立化を回避して、社会経験を享受できるようにしていくのが教育の役割だったりするのですが、それがうまくいっていないからこそ、ひきこもりが社会問題として未だクローズアップされています。
大人の側にそういう認識がないから、陰湿ないじめとひきこもりの問題は解決の糸口すら見つけられない状況になっています。
新成人に対して「社会人としての自覚と責任」を説くのが成人式での決まり文句になっていますが、実は「社会人としての自覚と責任」を説く側の大人の方こそ、自覚と責任に欠けていることが問題でもあります。
政治・経済のリーダーの姿勢を見ても、はっきりいって「社会人としての自覚と責任」をもって行動していると思える人がほとんどいないのが現状です。
この言葉は、新成人に対してというよりも、すでに成人してしまっているすべての大人に対して向けられるものではないでしょうか?
大人が「社会人としての自覚と責任」に基づいて行動していれば、わざわざ成人式で「社会人としての自覚と責任」などという言葉を発するまでもなく、子どもたちは大人の為りを見て、自ずとそのように行動するはずです。
「成人の日」とは、実は我々大人が自らの行動を反省すべき日なのではないでしょうか?(現代的な意味で)
【関連情報】
■成人式「羽織、はかまなら刀」模造刀所持し逮捕(読売新聞:1月9日 17時57分)
■泥酔運転、バイク蛇行…沖縄の新成人3人逮捕(読売新聞:1月9日21時59分)
■沖縄で新成人逮捕 無免許や酒酔いで騒ぎ(社会総合 - エキサイトニュース)
まあ、昔から羽目はずして警察のお世話になっていた新成人は仰山いたわけですが、そのほとんどが急性アルコール中毒とかの成人式後の仲間内の宴会で無理したことが原因だったりして…。
近年の傾向としては成人式を妨害するというのがよく見受けられますね。
新成人の一部によるこのような事件は、ある意味、大人社会に対するアンチテーゼという性格を持っていたりします。
成人式で暴れるというのも、路上で警察官ともみ合うというのも、とうの昔に成人してしまっている大人たちが作り上げた社会の秩序に対する反発の現われなわけです。
中には、成人しても俺たちは今までと変わらないということを示したくて、このような行動をするのだとは思いますが、ところが変わっちゃうんですよね。人間って…。
やはり、ある程度経験を積むことによって分別というか社会的な行動基準というのが身についてきます。
特に暴走族などの集団行動をするような人たちは、社会秩序への順応性があるので意外と社会経験を積んで年齢を経ていくうちに無茶をしなくなってきます。
不良集団にしても暴走族にしても、集団を維持するため成員に規範(規範の代替としてのリーダーの命令)への服従を要求するので、これらの集団に参加していた人々は脱退後は自分が行動すべき基準を別のものに求めるようになります。
つまり、不良集団であれ、暴走族であれ、社会に適応して行動する方法を学習する機会を提供しているということになるのです。
その行動基準(少々難しい言葉ですが、これを「準拠」といいます)が変わることで、それまで反社会的行動をとっていた人々も、比較的容易に大人社会に順応していきます。
でもまあ、彼らはカリスマを求める傾向が強いので、自分が従うに値しないと考える大人のいうことには容易に従わないという傾向もありますが…。
問題なのは、一匹狼的な人、ひきこもりなどの社会的関係をシャットアウトしてしまっている人たちです。
彼らは、規範・秩序を受け入れることを拒否、または受け入れる機会を持たない(持てない)ため、集団行動に慣れている人々よりも思い切った行動をとることがあります。
つまり、自分の行動をセーブするリミッターが外れているか存在しない状況にあるわけです。
こういう人は、過去に集団から受容を拒否され、疎外され続けてきたので、容易に集団を受け入れようとせずに自分の殻に閉じこもる傾向にあります。
こうなってしまったのにはさまざまな理由が考えられますが、幼少時のトラウマとなっている経験(圧倒的多数は小学校や中学校などの就学時の経験)が非常に大きいようです。
このような孤立化を回避して、社会経験を享受できるようにしていくのが教育の役割だったりするのですが、それがうまくいっていないからこそ、ひきこもりが社会問題として未だクローズアップされています。
大人の側にそういう認識がないから、陰湿ないじめとひきこもりの問題は解決の糸口すら見つけられない状況になっています。
新成人に対して「社会人としての自覚と責任」を説くのが成人式での決まり文句になっていますが、実は「社会人としての自覚と責任」を説く側の大人の方こそ、自覚と責任に欠けていることが問題でもあります。
政治・経済のリーダーの姿勢を見ても、はっきりいって「社会人としての自覚と責任」をもって行動していると思える人がほとんどいないのが現状です。
この言葉は、新成人に対してというよりも、すでに成人してしまっているすべての大人に対して向けられるものではないでしょうか?
大人が「社会人としての自覚と責任」に基づいて行動していれば、わざわざ成人式で「社会人としての自覚と責任」などという言葉を発するまでもなく、子どもたちは大人の為りを見て、自ずとそのように行動するはずです。
「成人の日」とは、実は我々大人が自らの行動を反省すべき日なのではないでしょうか?(現代的な意味で)
by mmwsp03f
| 2011-01-10 10:24
| 社会問題一般